2010年12月31日(金) コメント:0 トラックバック:0
ヨージさん単独ライブレポート(もどき)。
(タイトルに疑問を持たれた方は、一つ前の記事をご参照ください。)
ギリギリ年内にアップ。
(追記の可能性もあり。)
■プロローグのようなもの
ヨージさん単独ライブではおなじみ、足にティッシュボックス、手にチップスターの空き箱をはめた
アシモが登場。
ライブの前説を少々。
続いて、空き箱を脱ぎ捨てたヨージさん本人(と思しき人物)が下記のような小作品をいくつか披露。
(タイトルは勝手に命名したものもあり。)
●セツコとデブのお兄ちゃん
●学校によくいるこんな先輩(=女子歴史部)
●水風船とカナブン
■オープニング映像
イケメンの人気お笑いコンビなら、単独ライブにもお金がかけられる。
だから、本編を始める前に、かっこいい紹介映像を流すことも可能。
しかし、今の自分にはそれは無理。
そこで、「もし、できるのなら」と、理想のオープニング映像を口で説明。
(先に披露したネタに登場したであろう)カナブンが
飛行機のごとく空中に実線を描きながら画面を左右に行き来する。
その線上に今作品の登場人物名などが現れる。
*というのが映像の骨子だったと思う。
他に、紙飛行機も登場したような記憶が…
「三丁目の夕日」のオープニング的な映像だったような…
無論、ヨージさんは上記のような言葉を使って説明されたわけではない。
私が要約すると味もそっけもなくなるが、実際には、もっと臨場感あふれる面白い映像であった。
(スクリーンはなくとも、ヨージさんファンの目にはその映像が見えるのである。)
■メインストーリーのようなもの
'09年6/10のライブとほぼ同じ展開。
6/10 アサリがいっぱい!(わからない人は無視してください)
●キソ君の新たなエピソード
・雷おこしを、そういうもの(=雷を起こすことができる物)だと思っていた。
ヨージ曰く。「もし、そうなら、浅草は壊滅だ」
・「Can you celebrate?」を、できちゃった婚の歌だと思っていた。
「canとは、できる、という意味だ。それに、歌を歌っていた安室奈美恵もできちゃった婚だった」
というのがキソ君なりの理屈?であるらしい。
■サイドストーリーのようなもの、あるいはコネタ
●ヨージのプロフィール
・小学校時代
a放課後の行動
午後2時を過ぎると暇。
家にいてもなにもすることがない。
そこでチャリ(自転車)でできるだけ遠くに行く。
といっても、せいぜい隣町との境界線超えたあたり。
そこの大型スーパーの中にあるゲームセンターで時間をつぶす。
*午後2時を過ぎると暇、というのは実感を伴って理解できる。
現代の小学生は塾通いで忙しいのだろうが、自分が小学生の頃も、
ヨージさんと同じく自由時間がたっぷりあった。
ならば、その時間を無駄にせず、もっと有意義に過ごせばいいものを。
というのは、時間的貧乏性になった大人の発想。
普通の正しい小学生はそんな優等生的なことは考えない。
ただひたすら非生産的、非効率的な放課後を過ごすのだ。
b女子に反発
キソ君を含むクラスの仲間と、女子と口きかない同盟、を結ぶ。
c女子限定の授業内容を想像
高学年になると、女子だけが視聴覚室に集められ授業を受ける。
その授業のテーマは「大人になる準備」だ。
つまり、大人になったら聞く音楽を先生が教えてくれるのだ。
一人目の先生はビートルズ。
二人目の先生はモッズ(記憶曖昧)
三人目の先生は…(完全忘却)
*「女子だけが受ける授業」「大人になる準備」と聞くと
ついDr.ケーシーのようなネタを連想してしまう。
しかし、上品なヨージさんは、決してそういうわかりやすい方向には行かないのだ。
お客の予想を裏切り、品よくかわすセンスの良さに痺れる。
大人の音楽を教える授業、だから視聴覚室という場所にも必然性があったのだ。
(因みに私が小学校高学年の頃、「女子だけが受ける授業」で使われた場所は理科室だったと記憶している。
いかにも文部省らしいセンスの、たいくつなスライドを見せられた思い出がある。
まあ、ああいう授業に面白さを求めても、ないものねだりというものかもしれないが。
「女子だけが受ける授業」は、きっと、女子だけが受けるネタ、くらいつまらないのだ。)
d水泳の授業後、洗眼用水道にまつわる感慨
「プールの、眼を洗う水道を全開にした時、何かが変わった、と感じる」
*この台詞は比喩表現として使われた。
実際にはこの後「…感じるように…」と、続き、大きな気持ちの変化について言及された。
(と記憶している。)
この台詞にお客さんは大爆笑だった。
みな、おそらく小学生の頃に一度は経験したことのある、
覚えのある行為であり、感覚だったのだ。
確かに、眼を洗う水道を全開にすると、びっくりするほど水が高く上がるのだ。
しかし、この感覚は作文のテーマになるような類のものではない。
また、小学生の言語能力では、この感覚を正確に言葉に直すことはできない。
だから、言葉にされないまま、ただ、異常に驚いた、という記憶だけが頭の片隅に残る。
そして、何年かの後、ヨージさん単独ライブで
「何かが変わったと感じた」
と聞いて、「まさにそれだ!」と共感して爆笑するのだ。
こんなことができる人はなかなかいないと私は思う。
・現在
a現実逃避
お笑い芸人として活動。
帰省の折、妹セツコと友人キソ君の婚約話を聞き、驚愕、そして反発。
キソ君の学生時代のおバカエピソードを次々と語り、破談へともちこもうと試みる。
さらに、母が体調を崩すも「ヨージには言わないで」と、口止めしていたことを知らされ、
少なからぬショックを受け、セツコの話を遮り、打ち消そうとする。
*ヨージは妹と友人の婚約という事実をなかなか受け入れることができない。
妹は妹のままでいてほしいし、友人は「女子と口きかない同盟」を結んでいた当時の友人のままでいてほしい。
「女子と口きかない同盟」と聞き、「そんなのあったな…」と答える友人キソ君に、
「あった、じゃなくて、あるんだよ!」と怒るヨージ。
ヨージさんワールドでは、子供時代は今と完全に切り離された遠い場所にあるのではなく、
今と同じ地平にあるのだ。
それが妹、友人、には通用しなくなっていることに寂しさを覚え、二人に憎まれ口をたたく。
また、母親が不調という事実にも直面する勇気が持てずにいる。
ゆえに、妹がその話を持ち出すと、話題を変えようとする。
母親の身は十分に案じているのだが、未だにその母親を安心させられずにいることに
負い目も感じているのだろう。
母親にも妹にも申し訳ないと思いつつ、どうすることもできない自分にもいらだち、
結局、妹の話から耳をそらすように、別の話に逃げようとする。
どちらの行為も、大人気ない、子供じみている。
素直に事実を受け入れ、直面できれば、こんな苦労はしなくてすむものを。
でも、ヨージのへそ曲がりな態度の裏にひそむ、寂しさ、せつなさもわかるので、
おかしくて、笑いながらも、泣きたいような気持ちにもなる。
大人だからといって、常に大人らしく振舞えるとは限らないのだ。
(特に、気を許した身内には。)
b硬派
例1
妹と友人の婚約話を知らされ、「まさかできちゃった婚じゃないよな」と問い、
「そうではない」と聞き、一安心。
*ヨージさんは、古風なまでに健全なる貞操観念をお持ちであることが伺えるエピソードである。
例2
街中で時折見かけるカップル。
女が男の上着の裾を片手でつかみながら歩いている。
あれは一体何なのか?
女の手の中にある男の上着の裾の端は、プッチンプリンの容器の底のでっぱりみたいなものか?
それなら、あの端を強く引くと、男が幽体離脱したらいいのに。
と、独りごちる。
*二人だけの世界に陶酔しきっている男女。
しかしその陶酔ぶりは客観的に見て、まるでさまになっていない、絵にならない、むしろ見苦しい。
その見たくもない光景を見せられた苛立ちをストレートに表現せず、
プッチンプリンに例えて、容器(=身体)の中身(=魂)だけ抜けてしまえばいいのに、と願う。
ヨージさんの奥ゆかしい表現に、笑いながらも感動する。
こういうネタを作られるヨージさんは、軟派な陶酔男女はお好みではないのだとお察しする
c女子の言い訳を見抜く
「これ以上つきあっていると嫌いになりそうだから別れましょう」
という女子の言葉に、常々「嫌いになってから別れればいいじゃん」と思ってきたが、
そのカラクリがわかってきた。
女子は、現在つきあっている男子の知らないところ(会社、学校等)で、他に気になる男子を見つける。
そこで、今のうちに古い男子を切って、処分しておかなければと考える。
これは、そういう女子の心理が隠された言葉だったのだ。
つまりは、机の引き出しにエロ本がいっぱいたまり、もう限界だから処分しなくては、という気持ちと同じ。
そうじゃない?
と、問いかけるヨージ。
*女子の心の中では既に過去の人となった男子は、こっそり廃棄したい引き出しいっぱいのエロ本と同じなのか…
もう不要になったから、飽きてしまったから、他に好きな人ができたから別れたい。
でも、自分が相手をふった、という形はとりたくない。
悪者にはなりたくない。
いい人のまま、きれいな思い出だけを残したまま、さよならしたい。
実に身勝手でずうずうしい心理。
それが
「これ以上つきあっていると嫌いになりそうだから別れましょう」
なのだ。
恋愛の場面ではなくとも、この手の一見美しい詭弁を弄する人はいるなあ、と実感を伴って思うのであった。
●おばあちゃんの好きなお菓子&キソ君とセツコの愛の逃避行先
おばあちゃんは麩菓子が好き。
(以前の単独ライブでは、黒あめが好き、というエピソードがあった。)
というわけで、今回、キソ君とセツコが愛の逃避行をする先は、
「おばあちゃんの好きなお菓子でできたお菓子の家」になる。
だから、土台は麦ふぁー、天井は人形焼、でできている。
壁はコーラグミ…かと思ったら、納豆のたれ。
(この辺り、やや記憶曖昧。)
*とても地味なお菓子の家だ。
子供の頃読んだ絵本、「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家は、
とてもカラフルで、かわいくて、おいしそうだった。
何度読んでも、「こんなお家があったらなあ」と本気で思ったものだ。
ヨージさんワールドのお菓子の家は、子供にはまったく期待はずれの代物だ。
おおいに笑える。
●「トイザらスにいるおじさん」及びそれにまつわる考察
下記の過去記事の中の、
<■心に残る微妙な変化、進化、もしくはコネタ(ほんの数例)
1.差別及び偽善についての考察>
を披露。
『ヨージ単独ライブ2009ベスト』
(ただし、「倫理観がない」という感想を漏らすのは、芸人仲間ではなく、バイト仲間の大学生
に変化していた。)
●「サザエさん」最終回の前回@ヨージさんワールド
このタイミングで来週の予告をするのはマスオさんに非ず。
なんと
「初めて登場する」という、自称イトウ。(名字は記憶曖昧。)
彼は、
「つい最近、刑務所から出てきたばかり」で、
「久しぶりに、サザエとタラちゃんに会える」
と言う。
*つまりは、イトウさん=トイザらスにいるおじさん?
…というのは、観客が各自胸の中で思うことだ。
なにしろ、二つのエピソードは連続して語られるわけではないし、
ヨージさんは説明めいたことは一切話されないのだから。
胸の中で衝撃の事実にはっと気づき、それから(たぶん)胸の中で爆笑するのだ。
話はどんどん進んでいくので、実際に「あっ!」と声に出したり、
「あはは…」なんて笑っている暇はないのだ。
当然、何も気がつかないまま素通りしているお客もいることだろう。
●ドラえもんの道具@ヨージさんワールド
・人間性がスモールライト
(身長や体重は変わらないが、人間としての器が小さくなるスモールライト。)
2009ベストでも見たa、bの他に、
課長島耕作→万年平社員島耕作
が加わっていた(と記憶している)。
・乙女のドラえもん
「私、結婚できるのかしら?」と、あせる29才直前OLの問いに答える(応える、に非ず)ドラえもん。
「本厄婚約!」(≒翻訳こんにゃく)
*本家ドラえもんなら、名称を言いながら役立つ道具を出してくれるのだが、
乙女のドラえもんは道具は出さず、ただ予告するだけなのだ。
●πひろみ
郷(5)ひろみ、ならぬ、π(パイ)ひろみは、ゆとり教育世代のアイドル。
だから、「お嫁サンバ」のメロディで、「♪およそ3だ」と歌う。
発砲スチロールでできた、πのマークをステージ上に飾り演じるのがお決まりらしい。
(ただし、その形状は、πというより、元という漢字の上の一を除いたように見える。)
●視聴覚室奈美恵
これもヨージさんワールド内のアイドル歌手の名前。
しちょうかくむろなみえ、と読む。
無論、キソ君の新たなエピソードの二つ目と、ヨージのプロフィール小学校時代c、とリンクするネタ。
●漢字ネタ
・偏(へん)だけ最初から書かれている漢字学習帳
・部首3D
ウ冠、シンニュウ、などといった漢字の部首が立体になって登場。(材質は、たぶん段ボール。)
スプラッターな設定で、
「ブシュー!」(身体から血が吹き出る際の擬音語)≒部首
「身体から腸が飛び出たと思ったら、シンニュウだった」
というネタが続く。
●逆○○
・家政婦は見た 逆3D
扉の隙間などから隣の部屋を覗いている市原悦子が、画面の一番奥に見える、という作品。
・逆ケンタウロス
ケンタウロスなら、上半身が料理上手なオヤジ(得意料理はフライドチキン)、下半身が馬。
だけど、逆ケンタウロスは上半身が馬で下半身がオヤジ。
*これは、おばあちゃんの好きなお菓子でできているお菓子の家同様
心惹かれない。
・逆浦島太郎
浦島太郎の紙芝居を子供たちの前でやろうとしたら、「その話知ってる!」と言われたので、
絵の順番を、お終いから遡って見せて物語ることにした。
結果、次のような展開に。
(正確には、ヨージさんがこのように語られたわけではありません。
以下は要約です。)
浜辺にいる老人→玉手箱を持った若者、浦島太郎→亀に乗って海中に赴く浦島太郎→
乙姫様に玉手箱を渡す浦島太郎→宴会を楽しむ浦島太郎→亀に乗って地上に戻る浦島太郎→
浜辺で子供たちに金を払う浦島太郎→子供たちに亀を虐待させる浦島太郎
*世話になった亀に対し、恩を仇で返す浦島太郎。
救いのないお話にお客さん爆笑。
●お遍路@ヨージさんワールド
道端に落ちている軍手を拾い集めて千手観音の手にはめる、
というお遍路。
■心に残る表現(正確な再現ではありません。)
●のび太たちが空き地でやっている野球のボールと、かみなりさん家のガラス窓が引き合うように、
惹かれあう心
●「粉末スープを除いて、お湯を入れて3分たったどん兵衛くらい味気ないライブにようこそ」
■エンディング
πひろみのマークに、
漢字ネタで登場したウ冠を乗せ、その間に
おばあちゃんの好きな棒状の麩菓子を差し入れ、
「完」。
<追記>
(=半月以上過ぎて、今さらながらとりとめのない感想。)
ヨージさんの作品は非常に映像的だ。
映画好きであることはまず間違いないだろう。
理想のオープニング映像を語られたのはその嗜好を示すわかり易い例だが、
作品のどの部分からも映像的な趣を感じる。
ならば、いっそヨージさんの舞台作品を、落語を映画化するような手法で映像作品化したらどうだろうか?
ヨージさんが言葉で描写していたものが全て具体的な映像となり、
直に観客の視覚にうったえる明確なものとなるのだ。
そして、あのヨージさんワールドが、スクリーン上に何度でも再生可能となるのだ。
これは便利。
実にありがたい。
…ということになるだろうか?
私は、どうもそういうことにはならないような気がする。
ヨージさんの作品は映像的ではあるが、あくまでも舞台作品なのだ。
実際に映像化されたなら、舞台作品でありながら映像的な趣を感じさせるという
あの面白さは消え去ってしまうだろう。
そして、そのほかの面白い要素もまた同様である。
例えば、文学作品のような味わいもヨージさんの作品にはあると思うが、
実際にあの舞台を一文字残らず文字に直しても、まったく同じ味わいをもった文学作品とはならないだろう。
つまり、ヨージさんの舞台は複合的な要素で構成された作品であるから、
その中の特定の分野の作品に直しても、同じ色、味わい、面白さは再現できないのだと思う。
ヨージさんの作品は舞台上で一人で演じる、あの複雑な形でなければならないのだ。
他に代替はきかないのだ。
お金がかけられないから、仕方なくあの形ではないのだ。
必然的、絶対的に、あの形なのだ。
そして、あの形でいるのはヨージさんだけなのだ。
なんてすごいことだろう、と思わずにはいられない。
(タイトルに疑問を持たれた方は、一つ前の記事をご参照ください。)
ギリギリ年内にアップ。
(追記の可能性もあり。)
■プロローグのようなもの
ヨージさん単独ライブではおなじみ、足にティッシュボックス、手にチップスターの空き箱をはめた
アシモが登場。
ライブの前説を少々。
続いて、空き箱を脱ぎ捨てたヨージさん本人(と思しき人物)が下記のような小作品をいくつか披露。
(タイトルは勝手に命名したものもあり。)
●セツコとデブのお兄ちゃん
●学校によくいるこんな先輩(=女子歴史部)
●水風船とカナブン
■オープニング映像
イケメンの人気お笑いコンビなら、単独ライブにもお金がかけられる。
だから、本編を始める前に、かっこいい紹介映像を流すことも可能。
しかし、今の自分にはそれは無理。
そこで、「もし、できるのなら」と、理想のオープニング映像を口で説明。
(先に披露したネタに登場したであろう)カナブンが
飛行機のごとく空中に実線を描きながら画面を左右に行き来する。
その線上に今作品の登場人物名などが現れる。
*というのが映像の骨子だったと思う。
他に、紙飛行機も登場したような記憶が…
「三丁目の夕日」のオープニング的な映像だったような…
無論、ヨージさんは上記のような言葉を使って説明されたわけではない。
私が要約すると味もそっけもなくなるが、実際には、もっと臨場感あふれる面白い映像であった。
(スクリーンはなくとも、ヨージさんファンの目にはその映像が見えるのである。)
■メインストーリーのようなもの
'09年6/10のライブとほぼ同じ展開。
6/10 アサリがいっぱい!(わからない人は無視してください)
●キソ君の新たなエピソード
・雷おこしを、そういうもの(=雷を起こすことができる物)だと思っていた。
ヨージ曰く。「もし、そうなら、浅草は壊滅だ」
・「Can you celebrate?」を、できちゃった婚の歌だと思っていた。
「canとは、できる、という意味だ。それに、歌を歌っていた安室奈美恵もできちゃった婚だった」
というのがキソ君なりの理屈?であるらしい。
■サイドストーリーのようなもの、あるいはコネタ
●ヨージのプロフィール
・小学校時代
a放課後の行動
午後2時を過ぎると暇。
家にいてもなにもすることがない。
そこでチャリ(自転車)でできるだけ遠くに行く。
といっても、せいぜい隣町との境界線超えたあたり。
そこの大型スーパーの中にあるゲームセンターで時間をつぶす。
*午後2時を過ぎると暇、というのは実感を伴って理解できる。
現代の小学生は塾通いで忙しいのだろうが、自分が小学生の頃も、
ヨージさんと同じく自由時間がたっぷりあった。
ならば、その時間を無駄にせず、もっと有意義に過ごせばいいものを。
というのは、時間的貧乏性になった大人の発想。
普通の正しい小学生はそんな優等生的なことは考えない。
ただひたすら非生産的、非効率的な放課後を過ごすのだ。
b女子に反発
キソ君を含むクラスの仲間と、女子と口きかない同盟、を結ぶ。
c女子限定の授業内容を想像
高学年になると、女子だけが視聴覚室に集められ授業を受ける。
その授業のテーマは「大人になる準備」だ。
つまり、大人になったら聞く音楽を先生が教えてくれるのだ。
一人目の先生はビートルズ。
二人目の先生はモッズ(記憶曖昧)
三人目の先生は…(完全忘却)
*「女子だけが受ける授業」「大人になる準備」と聞くと
ついDr.ケーシーのようなネタを連想してしまう。
しかし、上品なヨージさんは、決してそういうわかりやすい方向には行かないのだ。
お客の予想を裏切り、品よくかわすセンスの良さに痺れる。
大人の音楽を教える授業、だから視聴覚室という場所にも必然性があったのだ。
(因みに私が小学校高学年の頃、「女子だけが受ける授業」で使われた場所は理科室だったと記憶している。
いかにも文部省らしいセンスの、たいくつなスライドを見せられた思い出がある。
まあ、ああいう授業に面白さを求めても、ないものねだりというものかもしれないが。
「女子だけが受ける授業」は、きっと、女子だけが受けるネタ、くらいつまらないのだ。)
d水泳の授業後、洗眼用水道にまつわる感慨
「プールの、眼を洗う水道を全開にした時、何かが変わった、と感じる」
*この台詞は比喩表現として使われた。
実際にはこの後「…感じるように…」と、続き、大きな気持ちの変化について言及された。
(と記憶している。)
この台詞にお客さんは大爆笑だった。
みな、おそらく小学生の頃に一度は経験したことのある、
覚えのある行為であり、感覚だったのだ。
確かに、眼を洗う水道を全開にすると、びっくりするほど水が高く上がるのだ。
しかし、この感覚は作文のテーマになるような類のものではない。
また、小学生の言語能力では、この感覚を正確に言葉に直すことはできない。
だから、言葉にされないまま、ただ、異常に驚いた、という記憶だけが頭の片隅に残る。
そして、何年かの後、ヨージさん単独ライブで
「何かが変わったと感じた」
と聞いて、「まさにそれだ!」と共感して爆笑するのだ。
こんなことができる人はなかなかいないと私は思う。
・現在
a現実逃避
お笑い芸人として活動。
帰省の折、妹セツコと友人キソ君の婚約話を聞き、驚愕、そして反発。
キソ君の学生時代のおバカエピソードを次々と語り、破談へともちこもうと試みる。
さらに、母が体調を崩すも「ヨージには言わないで」と、口止めしていたことを知らされ、
少なからぬショックを受け、セツコの話を遮り、打ち消そうとする。
*ヨージは妹と友人の婚約という事実をなかなか受け入れることができない。
妹は妹のままでいてほしいし、友人は「女子と口きかない同盟」を結んでいた当時の友人のままでいてほしい。
「女子と口きかない同盟」と聞き、「そんなのあったな…」と答える友人キソ君に、
「あった、じゃなくて、あるんだよ!」と怒るヨージ。
ヨージさんワールドでは、子供時代は今と完全に切り離された遠い場所にあるのではなく、
今と同じ地平にあるのだ。
それが妹、友人、には通用しなくなっていることに寂しさを覚え、二人に憎まれ口をたたく。
また、母親が不調という事実にも直面する勇気が持てずにいる。
ゆえに、妹がその話を持ち出すと、話題を変えようとする。
母親の身は十分に案じているのだが、未だにその母親を安心させられずにいることに
負い目も感じているのだろう。
母親にも妹にも申し訳ないと思いつつ、どうすることもできない自分にもいらだち、
結局、妹の話から耳をそらすように、別の話に逃げようとする。
どちらの行為も、大人気ない、子供じみている。
素直に事実を受け入れ、直面できれば、こんな苦労はしなくてすむものを。
でも、ヨージのへそ曲がりな態度の裏にひそむ、寂しさ、せつなさもわかるので、
おかしくて、笑いながらも、泣きたいような気持ちにもなる。
大人だからといって、常に大人らしく振舞えるとは限らないのだ。
(特に、気を許した身内には。)
b硬派
例1
妹と友人の婚約話を知らされ、「まさかできちゃった婚じゃないよな」と問い、
「そうではない」と聞き、一安心。
*ヨージさんは、古風なまでに健全なる貞操観念をお持ちであることが伺えるエピソードである。
例2
街中で時折見かけるカップル。
女が男の上着の裾を片手でつかみながら歩いている。
あれは一体何なのか?
女の手の中にある男の上着の裾の端は、プッチンプリンの容器の底のでっぱりみたいなものか?
それなら、あの端を強く引くと、男が幽体離脱したらいいのに。
と、独りごちる。
*二人だけの世界に陶酔しきっている男女。
しかしその陶酔ぶりは客観的に見て、まるでさまになっていない、絵にならない、むしろ見苦しい。
その見たくもない光景を見せられた苛立ちをストレートに表現せず、
プッチンプリンに例えて、容器(=身体)の中身(=魂)だけ抜けてしまえばいいのに、と願う。
ヨージさんの奥ゆかしい表現に、笑いながらも感動する。
こういうネタを作られるヨージさんは、軟派な陶酔男女はお好みではないのだとお察しする
c女子の言い訳を見抜く
「これ以上つきあっていると嫌いになりそうだから別れましょう」
という女子の言葉に、常々「嫌いになってから別れればいいじゃん」と思ってきたが、
そのカラクリがわかってきた。
女子は、現在つきあっている男子の知らないところ(会社、学校等)で、他に気になる男子を見つける。
そこで、今のうちに古い男子を切って、処分しておかなければと考える。
これは、そういう女子の心理が隠された言葉だったのだ。
つまりは、机の引き出しにエロ本がいっぱいたまり、もう限界だから処分しなくては、という気持ちと同じ。
そうじゃない?
と、問いかけるヨージ。
*女子の心の中では既に過去の人となった男子は、こっそり廃棄したい引き出しいっぱいのエロ本と同じなのか…
もう不要になったから、飽きてしまったから、他に好きな人ができたから別れたい。
でも、自分が相手をふった、という形はとりたくない。
悪者にはなりたくない。
いい人のまま、きれいな思い出だけを残したまま、さよならしたい。
実に身勝手でずうずうしい心理。
それが
「これ以上つきあっていると嫌いになりそうだから別れましょう」
なのだ。
恋愛の場面ではなくとも、この手の一見美しい詭弁を弄する人はいるなあ、と実感を伴って思うのであった。
●おばあちゃんの好きなお菓子&キソ君とセツコの愛の逃避行先
おばあちゃんは麩菓子が好き。
(以前の単独ライブでは、黒あめが好き、というエピソードがあった。)
というわけで、今回、キソ君とセツコが愛の逃避行をする先は、
「おばあちゃんの好きなお菓子でできたお菓子の家」になる。
だから、土台は麦ふぁー、天井は人形焼、でできている。
壁はコーラグミ…かと思ったら、納豆のたれ。
(この辺り、やや記憶曖昧。)
*とても地味なお菓子の家だ。
子供の頃読んだ絵本、「ヘンゼルとグレーテル」のお菓子の家は、
とてもカラフルで、かわいくて、おいしそうだった。
何度読んでも、「こんなお家があったらなあ」と本気で思ったものだ。
ヨージさんワールドのお菓子の家は、子供にはまったく期待はずれの代物だ。
おおいに笑える。
●「トイザらスにいるおじさん」及びそれにまつわる考察
下記の過去記事の中の、
<■心に残る微妙な変化、進化、もしくはコネタ(ほんの数例)
1.差別及び偽善についての考察>
を披露。
『ヨージ単独ライブ2009ベスト』
(ただし、「倫理観がない」という感想を漏らすのは、芸人仲間ではなく、バイト仲間の大学生
に変化していた。)
●「サザエさん」最終回の前回@ヨージさんワールド
このタイミングで来週の予告をするのはマスオさんに非ず。
なんと
「初めて登場する」という、自称イトウ。(名字は記憶曖昧。)
彼は、
「つい最近、刑務所から出てきたばかり」で、
「久しぶりに、サザエとタラちゃんに会える」
と言う。
*つまりは、イトウさん=トイザらスにいるおじさん?
…というのは、観客が各自胸の中で思うことだ。
なにしろ、二つのエピソードは連続して語られるわけではないし、
ヨージさんは説明めいたことは一切話されないのだから。
胸の中で衝撃の事実にはっと気づき、それから(たぶん)胸の中で爆笑するのだ。
話はどんどん進んでいくので、実際に「あっ!」と声に出したり、
「あはは…」なんて笑っている暇はないのだ。
当然、何も気がつかないまま素通りしているお客もいることだろう。
●ドラえもんの道具@ヨージさんワールド
・人間性がスモールライト
(身長や体重は変わらないが、人間としての器が小さくなるスモールライト。)
2009ベストでも見たa、bの他に、
課長島耕作→万年平社員島耕作
が加わっていた(と記憶している)。
・乙女のドラえもん
「私、結婚できるのかしら?」と、あせる29才直前OLの問いに答える(応える、に非ず)ドラえもん。
「本厄婚約!」(≒翻訳こんにゃく)
*本家ドラえもんなら、名称を言いながら役立つ道具を出してくれるのだが、
乙女のドラえもんは道具は出さず、ただ予告するだけなのだ。
●πひろみ
郷(5)ひろみ、ならぬ、π(パイ)ひろみは、ゆとり教育世代のアイドル。
だから、「お嫁サンバ」のメロディで、「♪およそ3だ」と歌う。
発砲スチロールでできた、πのマークをステージ上に飾り演じるのがお決まりらしい。
(ただし、その形状は、πというより、元という漢字の上の一を除いたように見える。)
●視聴覚室奈美恵
これもヨージさんワールド内のアイドル歌手の名前。
しちょうかくむろなみえ、と読む。
無論、キソ君の新たなエピソードの二つ目と、ヨージのプロフィール小学校時代c、とリンクするネタ。
●漢字ネタ
・偏(へん)だけ最初から書かれている漢字学習帳
・部首3D
ウ冠、シンニュウ、などといった漢字の部首が立体になって登場。(材質は、たぶん段ボール。)
スプラッターな設定で、
「ブシュー!」(身体から血が吹き出る際の擬音語)≒部首
「身体から腸が飛び出たと思ったら、シンニュウだった」
というネタが続く。
●逆○○
・家政婦は見た 逆3D
扉の隙間などから隣の部屋を覗いている市原悦子が、画面の一番奥に見える、という作品。
・逆ケンタウロス
ケンタウロスなら、上半身が料理上手なオヤジ(得意料理はフライドチキン)、下半身が馬。
だけど、逆ケンタウロスは上半身が馬で下半身がオヤジ。
*これは、おばあちゃんの好きなお菓子でできているお菓子の家同様
心惹かれない。
・逆浦島太郎
浦島太郎の紙芝居を子供たちの前でやろうとしたら、「その話知ってる!」と言われたので、
絵の順番を、お終いから遡って見せて物語ることにした。
結果、次のような展開に。
(正確には、ヨージさんがこのように語られたわけではありません。
以下は要約です。)
浜辺にいる老人→玉手箱を持った若者、浦島太郎→亀に乗って海中に赴く浦島太郎→
乙姫様に玉手箱を渡す浦島太郎→宴会を楽しむ浦島太郎→亀に乗って地上に戻る浦島太郎→
浜辺で子供たちに金を払う浦島太郎→子供たちに亀を虐待させる浦島太郎
*世話になった亀に対し、恩を仇で返す浦島太郎。
救いのないお話にお客さん爆笑。
●お遍路@ヨージさんワールド
道端に落ちている軍手を拾い集めて千手観音の手にはめる、
というお遍路。
■心に残る表現(正確な再現ではありません。)
●のび太たちが空き地でやっている野球のボールと、かみなりさん家のガラス窓が引き合うように、
惹かれあう心
●「粉末スープを除いて、お湯を入れて3分たったどん兵衛くらい味気ないライブにようこそ」
■エンディング
πひろみのマークに、
漢字ネタで登場したウ冠を乗せ、その間に
おばあちゃんの好きな棒状の麩菓子を差し入れ、
「完」。
<追記>
(=半月以上過ぎて、今さらながらとりとめのない感想。)
ヨージさんの作品は非常に映像的だ。
映画好きであることはまず間違いないだろう。
理想のオープニング映像を語られたのはその嗜好を示すわかり易い例だが、
作品のどの部分からも映像的な趣を感じる。
ならば、いっそヨージさんの舞台作品を、落語を映画化するような手法で映像作品化したらどうだろうか?
ヨージさんが言葉で描写していたものが全て具体的な映像となり、
直に観客の視覚にうったえる明確なものとなるのだ。
そして、あのヨージさんワールドが、スクリーン上に何度でも再生可能となるのだ。
これは便利。
実にありがたい。
…ということになるだろうか?
私は、どうもそういうことにはならないような気がする。
ヨージさんの作品は映像的ではあるが、あくまでも舞台作品なのだ。
実際に映像化されたなら、舞台作品でありながら映像的な趣を感じさせるという
あの面白さは消え去ってしまうだろう。
そして、そのほかの面白い要素もまた同様である。
例えば、文学作品のような味わいもヨージさんの作品にはあると思うが、
実際にあの舞台を一文字残らず文字に直しても、まったく同じ味わいをもった文学作品とはならないだろう。
つまり、ヨージさんの舞台は複合的な要素で構成された作品であるから、
その中の特定の分野の作品に直しても、同じ色、味わい、面白さは再現できないのだと思う。
ヨージさんの作品は舞台上で一人で演じる、あの複雑な形でなければならないのだ。
他に代替はきかないのだ。
お金がかけられないから、仕方なくあの形ではないのだ。
必然的、絶対的に、あの形なのだ。
そして、あの形でいるのはヨージさんだけなのだ。
なんてすごいことだろう、と思わずにはいられない。
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