2011年03月28日(月) コメント:2 トラックバック:0
山本光洋さんソロライブ “かかしになるために⑥”鑑賞。
プログラム順の感想など。
1.ラ・メール(海)
釣りにやってきた男性。
はりきって魚に戦いを挑むが、餌を取られるばかりで、いっこうに釣果があがらない。
ここは少し気長に待とうと、釣り糸を垂らしたまま竿を地面に突き刺し、
少し高い岩場に座って様子を見ることに。
糸の動きに注目、かかったと思ったら即竿を持つ、という算段だ。
しかし、疲れが出たのか、いつの間にか居眠り。
目が覚めたら潮が満ち、海水が足元まで迫っている。
もはや釣りどころではない。
とにかく岸に戻らなくては。
靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、岸に投げ、海中を歩いて戻ろうとする。
が、思いのほか水位が上がっており、このままでは腰から下が濡れると判断。
そこで、ズボンを脱ぎ、下着も脱ぎ、岸に投げ、行きかける。
が、腰から上も濡れそうだとわかり、シャツも脱ぎ、岸に投げ、結局全裸で泳いで戻る羽目に。
(パントマイムでそのように表現されるだけで、実際に服を脱がれるわけではありません。念のため。)
水中でもがいては海面に顔を出す、という動作を繰り返し、岸に向かう。
すると、竿が大きくしなっていることに気づく。
あわてて竿を持ち、糸を手繰り寄せる。
大物だ!
予想外の釣果に大興奮。
意気揚々と獲物を抱え、岩場に腰を落ち着け、胸元を見やり、満足感に浸る。
ふと視線を上げる。
眼前に広がるのは果てしない大海原。
(ここで、効果音の波の音が消え、La Merが流れ始める。)
自らが丸ごと海という大きな懐に抱かれているような感慨に浸る。
また、視線を下に落とす。
腕の中に確かな命の手ごたえを感じ、再び愛おしそうに胸元を見つめる。
そして、改めて優しく慈しむように抱き寄せる。
海に抱かれる男性。
その男性に抱かれる魚。
男性と魚の関係:男性=親、魚=赤ん坊
海との男性の関係:海=母、男性=子供(赤ん坊)
海と、男性&魚の関係:海=母なる海、男性&魚=母なる海の子供(赤ん坊)
という多重構造のイメージ。
海から生まれた赤ん坊、だから男性は生まれたままの姿になったのだ。
魚はもとより生まれたままの姿であるし。
あらゆる命を生み、育み、抱いている、母なる海。
それが自然に伝わってくる、感動的な作品。
作品の構成を見ると、
前半=動的、コミカル
後半=静的、感動的
と対照的な作りだ。
そして前半では男性と魚は勝負の相手、言わば敵対関係にあったが、
後半では親子関係、あるいは、共に同じ海から生まれた仲間、友好関係に変化している。
その意味でも対照的。
また、対照的だからこそ、後半の感動がさらに増すとも言える。
巧みにできているけれど、まったくあざとさはない。
静かに涙するような作品だ。
2.ドゥミプリエ・山本 ゲスト:加納真実
「自称バレエダンサー・ドゥミプリエ山本」
(光洋さんサイト内の説明)
モダンバレエの世界で活躍する自作自演のダンサーらしい。
オネエ言葉は使わないが(と記憶している)、そちらの人だということは、
声の出し方、仕草、ものごし、全体に漂う雰囲気でわかる。
芸術家、創作的な仕事に携わっている人に特有の空気もある。
私は過去に「炎の踊り」という作品を拝見したことがある。
今作品のテーマは「煙と蚊の禁断の愛」だそうだ。
煙=ドゥミプリエ・山本
蚊=加納真実嬢演じる女性ダンサー
(芸名もあったと思うが忘却)
という配役である。
ドゥミプリエ・山本氏は白の全身タイツ姿、腰に白い布を巻いている。
加納真実嬢は、上は黒のカットソー、下は白黒縞のレギンス、背中に薄い黒のレース状の布を垂らし、
フレームの大きな黒のサングラスをかけ、口には白いストローをくわえている。
(たぶん)Righteous BrothersのUnchained Melody が流れる中、
先端に赤い火を点した大きな緑色の渦巻きの側で、ゆらゆらと舞い踊るドゥミプリエ・山本。
一方、しばらく壁にへばりついていたモスキート加納嬢、空腹を感じたのか活動開始。
ストロー笛で高音を響かせながら客席を物色。
若い男子二人に目をつけると、ストローを近づけ栄養補給。
満腹になったところで、羽ばたきながらステージに舞い戻る。
そして二人(?)の電撃的出会い。
一目で恋に落ち、互いを情熱的に求め合うが、近づけば近づくほど、一方が目に見えて弱っていく。
そして、ついには、ぱったりと動きを止め、床にその身を伏せる。
ドゥミプリエ・山本氏ご本人は、しごく大真面目に創作ダンス取り組まれ、演じておられるのだが、
それがもう実にバカバカしくて笑える。
技術は確かなのだが、当人が真剣になればなるほどおかしさが増していく。
観客はこの悲恋に涙する…などということは一切なく、始終笑っていた。
ドゥミプリエ・山本氏は明るいブラウンの髪を若い頃の郷ひろみに似たスタイルにカットしている。
丸刈りの光洋さんとはまるで別人。
見た目も中身も。
こういう人、実際にいそうだなあ、と思う。
この作品は、ドゥミプリエ・山本氏のダンスだけでなく、彼の内面もきちんとわかるように
描かれているから面白いのだろう。
3.ドキドキする
まとまったストーリーがあるわけではなく、ドキドキする状態をパントマイムで演じた作品。
音楽と動きが一体化している。
光洋さんライブは、選曲のセンスもいい。
4.サルのようなもの
キャスター付きハンガーラック
(一例)
にハンガーが掛かっている。
そのハンガーには上着が掛かっている。
その上着をハンガーごと着る光洋さん。
瞬時にしてゴリラを思わせるサルのような体形に。
ハンガーのフックはラックに掛かったまま。
だから体の動きが制限される。
移動もハンガーラックごとするしかない。
檻の中のサル、という設定なのだろう。
制約のある中で、身体を使い、知恵を使い、自らの意志を貫こうとする様が観客の笑いを誘う。
苦労して手にしたバナナをうっかり落とし、最前列の優しそうなご婦人に拾ってもらう、
という場面もあったが、これは半ばハプニングだったのだろう。
ハプニングも計算に入れて作られた作品ではあるかもしれないが。
檻の中のサルなのだから、一から十まで決められたシナリオ通りに動いたら面白くないだろうから。
5.Ben 4
Jackson 5のあの名曲Benが流れ、どんな感動的な作品が繰り広げられるかと思ったら…
舞台中央、高い位置に、肌色をした大きな半円二つが曲線部を下にして横に並んでいる。
その真ん中、窪み部分の下には脚立が置かれている。
上下茶色の服に身を包み、黄土色の靴下を履いた光洋さん、
舞台下手に置かれためくりをめくり、次に出演する芸人の名前を見せる。
それから、脚立を上り、下りるとその名前の芸人になりきって演技する。
噺家さんになった時は、
「えー、私はほんのつなぎでして、これから続々と出て参ります」
と挨拶。
泥棒の噺ではお馴染みのまくら、浅草寺の賽銭泥棒と仁王様のやりとりをご披露。
(Benという名のこの作品にふさわしいまくらである。)
そして、おっしゃるように続々と、名前の中にBenの入った芸人が登場。
1のラ・メールでは美しい感動の世界を見せてくださった光洋さん、
こういう世界も描かれるのですね…
天国でマイケルも大笑いかも。
6.ピーちゃん
(ピーちゃんの説明については↓をご参照ください。
すばらしい もどかしい)
今回ピーちゃんが挑戦するのは、巻き取り式メジャー上の綱渡り。
最初はなかなか勇気が出ず、尻込みしているピーちゃんだが、ようやく決心して、そろそろと渡り始める。
途中、あわや落下、という息を飲む場面もあるが、なんとか成功。
お客さんほっと胸をなでおろす。
まあ、とにかくピーちゃんはかわいい!
そしてセクシー。
なかなかコケティッシュだ。
それも、漂うのは、そこはかとない日本的な色気ではなく、欧米的な濃厚な色香である。
Betty Boopに通じるような。
しかし、ピーちゃんのほうがどう見てもBettyさんよりずっと年下だ。
幼いといってもいい年齢だろう。
顔はベビーフェイス、体形も赤ん坊か幼児並み。
それでいて、あの自然に色っぽい仕草。
そのギャップがたまらない。
あの魅力は生身の女子が演じても決して出ないだろう。
そして、あのかわいくてセクシーなピーちゃんだから、毎回彼女のチャレンジを応援したくなるのだろう。
セクシーなピーちゃんにドキドキして、スリリングな場面にドキドキする。
ドキドキの相乗効果で楽しさ増大である。
キューピーさんの顔と自らの手だけで、ピーちゃんというキャラクターに命を吹き込んでしまう
光洋さんはすごいと思う。
7.ラヴィアン・山本
(この作品は3月4日には演じられたようですが、5日には削られていました。)
8.ばーちゃる
光洋さん演じる、3Dのバーチャルゲームを楽しむ男性。
一つのゲームに飽きると、リモコンを操作して別のゲームへと、次々に仮想世界を移動する。
男性が見ている映像は観客には見えない。
音楽と男性の動きからどんなストーリーかを理解する。
男性は機械だけに頼り、限りなく現実に似せて見せた、非現実の世界に遊ぶ。
観客は現実に見える男性の動きと、耳に聞こえる音楽から、男性が体験している仮想世界、非現実を想像する。
男性の体験は、機械なしには成立しない、最先端に位置するもの。
観客の体験は、自らの想像力なしには味わえない、極めて原始的なところに位置するもの。
両者の対比が面白い。
観客は、最先端のものを、機械ではなく想像力という原始的な方法で見るのだ。
それも面白い。
また、観客は男性の疑似体験を疑似体験するのである。
そこも面白い。
さらに言えば、この男性を演じる光洋さんご自身は、
現実には3Dのバーチャルゲームを体験しているわけではない。
そう見せているだけだ。
すなわち虚構である。
男性が見ているものも虚構なら、光洋さんが見せているものも虚構なのだ。
その点も面白い。
拝見している時には、男性がゲームを変える度に行動が変化することを単純に楽しんでいたが、
今振り返ってみると、実に複雑で多重構造的な面白さがある作品だったのだ。
(もっと早く気づけよ>自分)
9.チャーリー山本
糸操り人形のチャーリー山本。
今回は大道芸の芸人さんなどがよくなさるバルーンアートを作成。
しかし、出来上がりはイマイチ。
プレゼントされたお客さん、心から嬉しかったのかどうか?
でも、そんなことより、みなさん、チャーリーが出てきてくれるだけで嬉しいからいいのだ。
チャーリーの出番になると、舞台がぱっと明るくなって、お客さんの顔もほころぶ。
お客さんはチャーリーが大好きなのだ。
そして、光洋さんもきっとチャーリーが好きなのだ。
おそらくご自身とはまったく性格の異なる、能天気に明るいチャーリーを楽しそうに演じていらっしゃる。
お客さんからも、演者からも愛されるキャラクター、チャーリーは幸せ者だ。
★ 全体的感想
光洋さんの全作品の質の高さと、バラエティの広さに畏れ入る。
感動的なもの、バカバカしいもの、深遠なもの、笑いをさそうもの、哲学的なものも、文学的なもの、
複雑なもの、シンプルなもの…
どれも面白い。
Benの中の落語のまくらでは、ほとんどのお客さんが落ちを聞いて笑っていた。
たぶん、落語にはあまりなじみがないという方々が多かったのだろう。
事実、光洋さんライブでお見かけしたお客さんと、他のライブ会場でお会いしたという記憶がない。
(友人を除く。)
また、落語の会、演芸の会でお見かけしたお客さんと、光洋さんライブでお会いしたという経験もない。
(友人を除く。)
どちらも見ようというタイプのお客さんはあまり多くないのだろう。
光洋さんご自身は演芸もお好きなようで、その世界をにおわせる作品も創っていらっしゃる。
それなのに、見る側が限られた会にしか足をんでいないとしたら、もったいないことだと思う。
光洋さん同様に演芸の世界になじんでいれば、作品がもっと楽しめるのに。
(同じようなことを、見せる側という観点で去年も書いていた。
感じることに進歩がない私だ。)
*ちょっとした裏話
この記事は、3/7現在、1のラ・メールの真ん中あたりまで書いていた。
その後、あの大震災があり、しばらく続きを書けずにいた。
書く気力が湧かなかったのだ。
そして、ある程度の時間がたち、少し落ち着いてから続きを書いた。
海に関する作品だから書くのを自粛しよう、と思ったわけではない。
UPが遅くなったのは、偏に私の精神的弱さによるものだ。
光洋さんの作品のすばらしさは、どんな状況であれ変わりはない。
プログラム順の感想など。
1.ラ・メール(海)
釣りにやってきた男性。
はりきって魚に戦いを挑むが、餌を取られるばかりで、いっこうに釣果があがらない。
ここは少し気長に待とうと、釣り糸を垂らしたまま竿を地面に突き刺し、
少し高い岩場に座って様子を見ることに。
糸の動きに注目、かかったと思ったら即竿を持つ、という算段だ。
しかし、疲れが出たのか、いつの間にか居眠り。
目が覚めたら潮が満ち、海水が足元まで迫っている。
もはや釣りどころではない。
とにかく岸に戻らなくては。
靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、岸に投げ、海中を歩いて戻ろうとする。
が、思いのほか水位が上がっており、このままでは腰から下が濡れると判断。
そこで、ズボンを脱ぎ、下着も脱ぎ、岸に投げ、行きかける。
が、腰から上も濡れそうだとわかり、シャツも脱ぎ、岸に投げ、結局全裸で泳いで戻る羽目に。
(パントマイムでそのように表現されるだけで、実際に服を脱がれるわけではありません。念のため。)
水中でもがいては海面に顔を出す、という動作を繰り返し、岸に向かう。
すると、竿が大きくしなっていることに気づく。
あわてて竿を持ち、糸を手繰り寄せる。
大物だ!
予想外の釣果に大興奮。
意気揚々と獲物を抱え、岩場に腰を落ち着け、胸元を見やり、満足感に浸る。
ふと視線を上げる。
眼前に広がるのは果てしない大海原。
(ここで、効果音の波の音が消え、La Merが流れ始める。)
自らが丸ごと海という大きな懐に抱かれているような感慨に浸る。
また、視線を下に落とす。
腕の中に確かな命の手ごたえを感じ、再び愛おしそうに胸元を見つめる。
そして、改めて優しく慈しむように抱き寄せる。
海に抱かれる男性。
その男性に抱かれる魚。
男性と魚の関係:男性=親、魚=赤ん坊
海との男性の関係:海=母、男性=子供(赤ん坊)
海と、男性&魚の関係:海=母なる海、男性&魚=母なる海の子供(赤ん坊)
という多重構造のイメージ。
海から生まれた赤ん坊、だから男性は生まれたままの姿になったのだ。
魚はもとより生まれたままの姿であるし。
あらゆる命を生み、育み、抱いている、母なる海。
それが自然に伝わってくる、感動的な作品。
作品の構成を見ると、
前半=動的、コミカル
後半=静的、感動的
と対照的な作りだ。
そして前半では男性と魚は勝負の相手、言わば敵対関係にあったが、
後半では親子関係、あるいは、共に同じ海から生まれた仲間、友好関係に変化している。
その意味でも対照的。
また、対照的だからこそ、後半の感動がさらに増すとも言える。
巧みにできているけれど、まったくあざとさはない。
静かに涙するような作品だ。
2.ドゥミプリエ・山本 ゲスト:加納真実
「自称バレエダンサー・ドゥミプリエ山本」
(光洋さんサイト内の説明)
モダンバレエの世界で活躍する自作自演のダンサーらしい。
オネエ言葉は使わないが(と記憶している)、そちらの人だということは、
声の出し方、仕草、ものごし、全体に漂う雰囲気でわかる。
芸術家、創作的な仕事に携わっている人に特有の空気もある。
私は過去に「炎の踊り」という作品を拝見したことがある。
今作品のテーマは「煙と蚊の禁断の愛」だそうだ。
煙=ドゥミプリエ・山本
蚊=加納真実嬢演じる女性ダンサー
(芸名もあったと思うが忘却)
という配役である。
ドゥミプリエ・山本氏は白の全身タイツ姿、腰に白い布を巻いている。
加納真実嬢は、上は黒のカットソー、下は白黒縞のレギンス、背中に薄い黒のレース状の布を垂らし、
フレームの大きな黒のサングラスをかけ、口には白いストローをくわえている。
(たぶん)Righteous BrothersのUnchained Melody が流れる中、
先端に赤い火を点した大きな緑色の渦巻きの側で、ゆらゆらと舞い踊るドゥミプリエ・山本。
一方、しばらく壁にへばりついていたモスキート加納嬢、空腹を感じたのか活動開始。
ストロー笛で高音を響かせながら客席を物色。
若い男子二人に目をつけると、ストローを近づけ栄養補給。
満腹になったところで、羽ばたきながらステージに舞い戻る。
そして二人(?)の電撃的出会い。
一目で恋に落ち、互いを情熱的に求め合うが、近づけば近づくほど、一方が目に見えて弱っていく。
そして、ついには、ぱったりと動きを止め、床にその身を伏せる。
ドゥミプリエ・山本氏ご本人は、しごく大真面目に創作ダンス取り組まれ、演じておられるのだが、
それがもう実にバカバカしくて笑える。
技術は確かなのだが、当人が真剣になればなるほどおかしさが増していく。
観客はこの悲恋に涙する…などということは一切なく、始終笑っていた。
ドゥミプリエ・山本氏は明るいブラウンの髪を若い頃の郷ひろみに似たスタイルにカットしている。
丸刈りの光洋さんとはまるで別人。
見た目も中身も。
こういう人、実際にいそうだなあ、と思う。
この作品は、ドゥミプリエ・山本氏のダンスだけでなく、彼の内面もきちんとわかるように
描かれているから面白いのだろう。
3.ドキドキする
まとまったストーリーがあるわけではなく、ドキドキする状態をパントマイムで演じた作品。
音楽と動きが一体化している。
光洋さんライブは、選曲のセンスもいい。
4.サルのようなもの
キャスター付きハンガーラック
(一例)
にハンガーが掛かっている。
そのハンガーには上着が掛かっている。
その上着をハンガーごと着る光洋さん。
瞬時にしてゴリラを思わせるサルのような体形に。
ハンガーのフックはラックに掛かったまま。
だから体の動きが制限される。
移動もハンガーラックごとするしかない。
檻の中のサル、という設定なのだろう。
制約のある中で、身体を使い、知恵を使い、自らの意志を貫こうとする様が観客の笑いを誘う。
苦労して手にしたバナナをうっかり落とし、最前列の優しそうなご婦人に拾ってもらう、
という場面もあったが、これは半ばハプニングだったのだろう。
ハプニングも計算に入れて作られた作品ではあるかもしれないが。
檻の中のサルなのだから、一から十まで決められたシナリオ通りに動いたら面白くないだろうから。
5.Ben 4
Jackson 5のあの名曲Benが流れ、どんな感動的な作品が繰り広げられるかと思ったら…
舞台中央、高い位置に、肌色をした大きな半円二つが曲線部を下にして横に並んでいる。
その真ん中、窪み部分の下には脚立が置かれている。
上下茶色の服に身を包み、黄土色の靴下を履いた光洋さん、
舞台下手に置かれためくりをめくり、次に出演する芸人の名前を見せる。
それから、脚立を上り、下りるとその名前の芸人になりきって演技する。
噺家さんになった時は、
「えー、私はほんのつなぎでして、これから続々と出て参ります」
と挨拶。
泥棒の噺ではお馴染みのまくら、浅草寺の賽銭泥棒と仁王様のやりとりをご披露。
(Benという名のこの作品にふさわしいまくらである。)
そして、おっしゃるように続々と、名前の中にBenの入った芸人が登場。
1のラ・メールでは美しい感動の世界を見せてくださった光洋さん、
こういう世界も描かれるのですね…
天国でマイケルも大笑いかも。
6.ピーちゃん
(ピーちゃんの説明については↓をご参照ください。
すばらしい もどかしい)
今回ピーちゃんが挑戦するのは、巻き取り式メジャー上の綱渡り。
最初はなかなか勇気が出ず、尻込みしているピーちゃんだが、ようやく決心して、そろそろと渡り始める。
途中、あわや落下、という息を飲む場面もあるが、なんとか成功。
お客さんほっと胸をなでおろす。
まあ、とにかくピーちゃんはかわいい!
そしてセクシー。
なかなかコケティッシュだ。
それも、漂うのは、そこはかとない日本的な色気ではなく、欧米的な濃厚な色香である。
Betty Boopに通じるような。
しかし、ピーちゃんのほうがどう見てもBettyさんよりずっと年下だ。
幼いといってもいい年齢だろう。
顔はベビーフェイス、体形も赤ん坊か幼児並み。
それでいて、あの自然に色っぽい仕草。
そのギャップがたまらない。
あの魅力は生身の女子が演じても決して出ないだろう。
そして、あのかわいくてセクシーなピーちゃんだから、毎回彼女のチャレンジを応援したくなるのだろう。
セクシーなピーちゃんにドキドキして、スリリングな場面にドキドキする。
ドキドキの相乗効果で楽しさ増大である。
キューピーさんの顔と自らの手だけで、ピーちゃんというキャラクターに命を吹き込んでしまう
光洋さんはすごいと思う。
7.ラヴィアン・山本
(この作品は3月4日には演じられたようですが、5日には削られていました。)
8.ばーちゃる
光洋さん演じる、3Dのバーチャルゲームを楽しむ男性。
一つのゲームに飽きると、リモコンを操作して別のゲームへと、次々に仮想世界を移動する。
男性が見ている映像は観客には見えない。
音楽と男性の動きからどんなストーリーかを理解する。
男性は機械だけに頼り、限りなく現実に似せて見せた、非現実の世界に遊ぶ。
観客は現実に見える男性の動きと、耳に聞こえる音楽から、男性が体験している仮想世界、非現実を想像する。
男性の体験は、機械なしには成立しない、最先端に位置するもの。
観客の体験は、自らの想像力なしには味わえない、極めて原始的なところに位置するもの。
両者の対比が面白い。
観客は、最先端のものを、機械ではなく想像力という原始的な方法で見るのだ。
それも面白い。
また、観客は男性の疑似体験を疑似体験するのである。
そこも面白い。
さらに言えば、この男性を演じる光洋さんご自身は、
現実には3Dのバーチャルゲームを体験しているわけではない。
そう見せているだけだ。
すなわち虚構である。
男性が見ているものも虚構なら、光洋さんが見せているものも虚構なのだ。
その点も面白い。
拝見している時には、男性がゲームを変える度に行動が変化することを単純に楽しんでいたが、
今振り返ってみると、実に複雑で多重構造的な面白さがある作品だったのだ。
(もっと早く気づけよ>自分)
9.チャーリー山本
糸操り人形のチャーリー山本。
今回は大道芸の芸人さんなどがよくなさるバルーンアートを作成。
しかし、出来上がりはイマイチ。
プレゼントされたお客さん、心から嬉しかったのかどうか?
でも、そんなことより、みなさん、チャーリーが出てきてくれるだけで嬉しいからいいのだ。
チャーリーの出番になると、舞台がぱっと明るくなって、お客さんの顔もほころぶ。
お客さんはチャーリーが大好きなのだ。
そして、光洋さんもきっとチャーリーが好きなのだ。
おそらくご自身とはまったく性格の異なる、能天気に明るいチャーリーを楽しそうに演じていらっしゃる。
お客さんからも、演者からも愛されるキャラクター、チャーリーは幸せ者だ。
★ 全体的感想
光洋さんの全作品の質の高さと、バラエティの広さに畏れ入る。
感動的なもの、バカバカしいもの、深遠なもの、笑いをさそうもの、哲学的なものも、文学的なもの、
複雑なもの、シンプルなもの…
どれも面白い。
Benの中の落語のまくらでは、ほとんどのお客さんが落ちを聞いて笑っていた。
たぶん、落語にはあまりなじみがないという方々が多かったのだろう。
事実、光洋さんライブでお見かけしたお客さんと、他のライブ会場でお会いしたという記憶がない。
(友人を除く。)
また、落語の会、演芸の会でお見かけしたお客さんと、光洋さんライブでお会いしたという経験もない。
(友人を除く。)
どちらも見ようというタイプのお客さんはあまり多くないのだろう。
光洋さんご自身は演芸もお好きなようで、その世界をにおわせる作品も創っていらっしゃる。
それなのに、見る側が限られた会にしか足をんでいないとしたら、もったいないことだと思う。
光洋さん同様に演芸の世界になじんでいれば、作品がもっと楽しめるのに。
(同じようなことを、見せる側という観点で去年も書いていた。
感じることに進歩がない私だ。)
*ちょっとした裏話
この記事は、3/7現在、1のラ・メールの真ん中あたりまで書いていた。
その後、あの大震災があり、しばらく続きを書けずにいた。
書く気力が湧かなかったのだ。
そして、ある程度の時間がたち、少し落ち着いてから続きを書いた。
海に関する作品だから書くのを自粛しよう、と思ったわけではない。
UPが遅くなったのは、偏に私の精神的弱さによるものだ。
光洋さんの作品のすばらしさは、どんな状況であれ変わりはない。
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- #222
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「ラ・メール(海)」を読ませていただき、某台湾アーティストの名曲「飛び魚」と「僕の海」をとっさに思い出しました。前半の動的なコミカルな感じは「飛び魚」、後半の母なる海の包容力のある優しい感じが「僕の海」を連想させます。この文章を読ませていただいている間、ずっと私の脳内CD機でなり続けていたのが、この2曲です。山本光洋さんソロライブ 、ぜひ目の前で見てみたい!
台詞のある作品もなさいますが、ラ・メールは完全に無言劇です。
ですから、そのアーティストさんにも見ていただけたら
きっと楽しんでいただけるのではないかと思います。
光洋さんは大道芸もなさるので、日本全国、また海外でも公演されているようです。
いつかご覧になる機会があるといいですね。