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Butterflies Are Free : 3/20 ♪找自己 (by David Tao)

舞台鑑賞好きの私の日常。

3/20 ♪找自己 (by David Tao)

2009年03月24日(火) コメント:0 トラックバック:0

ヨージさん単独ライブ鑑賞。

■メインストーリーのようなもの

小学校3年のヤスダ君とクラスメートの女子。
「ブス」
「そう言う人は心がブスなんだよ。男のくせにブス」
「メガネ」
「メガネはチャームポイントでしょ。
女の子はメガネからコンタクトに換えるとシンデレラに変身するのよ」
「バカ」
「バカって先に言った方がバカなんだからね」
「お前の弟もバカ」
「うちの弟はバカなんかじゃありません。
あんたのお父さんなんか、竹の子盗んでつかまったくせに」
と、口げんかが絶えない。
(実際には、ヤスダ君の台詞は発せられず、女子の台詞から察する仕組み。)

女子は下校途中抜け道にしている神社で、
「クラス変えになっても、4年もヤスダ君と同じクラスになれますように」
と神頼み。
実はヤスダ君のことを憎からず思っているのだ。
そこへいきなり現れたおじさん。
「わあ、神社に勝手に住んでいる人だ!」
と驚く女子。
(が、このおじさんの正体は、ファミコンの名手、高橋名人なのである。)
すると母親からケイタイに連絡が入る。
「え? 弟が登り棒から下りられなくなった!」
と、さらに驚く女子。

ヤスダ君の父親は警察で取調べを受けている。
真空パックされた竹の子を前に、
「やった、と言えば後のことは全てこちらで済ますから、楽になれ」
と、刑事に詰め寄られる。
当人は、スーパーで買い物の途中、車椅子のおばあさんを助けようとして
竹の子を手にしたまま外に出たところ、神社の石段の下あたりで見知らぬ男にぶつかった
という覚えはあるが、犯罪を犯したという自覚はない。
が、警察側は犯罪に関わる何かが竹の子の中に隠されていると疑い、
追求の手をゆるめない。

ヤスダ君は家庭の事情で引越しすることになったことを、しんみりとクラスメートに告げる。

一方、濡れ衣を着せられかけたヤスダ君の父親は、窮地を脱するべく発明博士を頼る。
博士は、時間を遡り、トラブルに巻き込まれるのを回避するようにと、最新作のタイムマシンを
託す。
(マシンの形状は、ぺヤングソース焼きそばの空き容器と給油ポンプを合体させたように見える。)
ただし、このマシンは1回の操作につき2秒しか時間移動ができないので、
指使いが早い人物が操作せねばならない。
そこで、1秒にボタンを16連打できる高橋名人に白羽の矢があたる。
(ただし「ゲームは1日1時間」なので、それも計算の上で時間を遡らなければならない。)
博士と高橋名人の力を借り、問題の場所、問題の時間に戻ろうとするヤスダ君の父親…

ラストシーン
ヤスダ君を好きな女子は、町を去ろうとしている彼をある乗り物に乗って追いかけて行く。


■作品の芯のようなもの

●映画「転校生」の石段落ち、入れ替わりのシーンがいろんな形で語られる。

・のび太とジャイアン

「ドラえもん」と「転校生」を合体させた映画の予告編。
のび太とジャイアンの身体と心が入れ替わる。
有名な入浴シーンで「お兄ちゃんのエッチ!」と叫ぶのは、
しずかちゃんに姿を変えてまで、のび太への愛を貫こうとしたジャイ子だった。

*しずかちゃんとジャイ子の身体と心も入れ替わっていた、ということだが、
ジャイ子には、身体はのび太である人物の正体がわかったのか?

・ミッキー&ミニーと、ガチャピンとムック

(ヨージさんによれば)日本にディズニーランドを作る際、浦安と尾道が候補地に挙がったのだが、
ミッキーとミニーが石段落ちで中身が入れ替わるなどということはありえないので
(中に人は入っていないということになっているから)、最終的に浦安に決定された。
ガチャピンとムックなら中身が入れ替わるということもありうる。

・マナとカナ

マナカナが出演するCM。
石段落ちのシーンの後、ニヤリと笑う二人のアップ。
そして「JR西日本」というナレーション。
尾道に来た時と帰る時では中身の違う二人。
改札にいた駅員さんも気がつかないけれど、「本当は私たち入れ替わっているのよ」
と、心の中で言うマナとカナ。

・現在の自分と過去の自分

神社の石段の下で、タイムマシンを使って過去に遡るヤスダ君の父親。
現在の自分と過去の自分が入れ替わる。

*ぶつかった男は、過去から見た未来、すなわち現在の自分、だったのだろう。

・雑誌Aと雑誌B (変形バージョン)

「縦じまのハンカチが横じまのハンカチに変わる」というマギー司郎の手品を踏まえ、
二冊のコミック雑誌を表紙が見えるように重ねて透明の袋に入れ、
雑誌Aが雑誌Bに変わる、というネタを披露する男子。
妹から、
「お兄ちゃん、両方買うお金あったの? 万引きしたんでしょ」
と疑われる。

*石段落ちとは直接関係ないが、広義に解釈すれば、入れ替わりネタに数えられると思う。
雑誌の具体名は、コロコロコミックの他は忘却。


●ミニ四駆が要になる話

1.ミニ四駆グラタン

ヨージさんワールドではミニ四駆は生き物であるらしく、単三(電池)を餌にして罠をしかけ、
野生のミニ四駆を捕まえることができるらしい。
その活きのいいミニ四駆を使った料理の一つが、ミニ四駆グラタンである。

2.ミニ四駆の散歩

捕まえたトンボに紐を結び、その端を手にしながら宙を飛ぶトンボとともに歩く兄。
兄をまね、ミニ四駆に紐を結び、その端を手にしながら地面を走るミニ四駆とともに歩く弟。

3.ミニ四駆ぞり

失恋したエスキモーの女性、酒場から表に出ると、感情の赴くままに犬ぞりで雪原を疾走する。
(これが都会なら、車でビル街を駆け抜けるというシーンになるだろう。)
そして、小学校3年の女子は、ミニ四駆ぞりでヤスダ君を追いかけていく。
(1と2の話を踏まえた上で、3のラストシーンが描かれるのだ。
無論、1、2、3の間には別の話が無数に詰まっている。)

だから今回のライブのタイトルは、
ヨージ単独デュエル
『北極点を目指すミニ四駆ぞり~2009・春~』
なのである。


■心に残るシーン、ほんの一部

●女子なんかみんな死んじゃえ

参考資料

細部に多少の違いはあるが、話の筋は上記とほぼ同じであった。

●男子の悪行を先生に言いつける女子

・「男子が、クラスの女子でだれが一番ブスか、っていう選挙してました。
後ろの黒板使って。
ヤスダ君がゴルバチョフ書記長でした」

*ヤスダ君の役職が議長とか委員長だったらさほどおもしろくない。
ゴルバチョフ書記長、というセンスのよさに惚れ惚れ。

・「黙想の時間、ヤスダ君は目をあけてました。
嘘つかないでください。
私、見てたんだからね。
私はうす目です。
先生、うす目はセーフなんだよね」

●女子に反撃しようとする男子

男子「下校の時、女子3人がたて笛吹いてました」
女子「それのどこがいけないんですか?」
男子「……近所迷惑だと思います」

●超能力についての考察

プラスチックのスプーン曲げを見てみたい。
従来のスプーン曲げは、超能力、ではなく、鉄を曲げる能力、なのではないか?
超能力とは特別な人だけが備えているものではなく、だれにでもその人なりの
特殊な能力があるはずだ。
小学校時代、身元を確かめられないように名札を外し、友達と少し遠出をして
地元と隣の地域の境目の橋を渡っていると、よそのおばさんから
「あんたたち、どこ小(=どこの小学校)?
この橋渡っちゃだめでしょ」
と言われた。
おばさんは橋渡っているくせに。
そんな経験を繰り返しているうちに県境に来ると体で感知できる友人が現れた。

(その他、どうでもいいような能力が語られるのだが、それが後に描かれる
「ひらがなを武器代わりにする銀行強盗」の伏線となる。
ただしこのライブを未見の人に言葉で伝えることは不可能なので筋は省略。)

●ガチャピンの中に入っている男

静かに淡々と、理想のガチャピンの中身像を語るヨージさん。
いくつも挙げられる例はそこはかとなくおかしいのだが、妙に頷けたりもする。
詩の朗読というスタイルが文学的で美しい。

「ガチャピンの中に入っている男は、
ムックの毛玉をエチケットブラシでとってあげる男であってほしい」

例を一つしか挙げられないのが残念至極。
(当方の記憶力の問題である。)

●人間の種類

「世の中には二種類の人間がいる、
と言うやつと、言わないやつ、
二種類の人間がいる」


■感想めいたもの

●アイデンティティの模索

石段落ちの入れ替わりシーンや、ガチャピンの中に入っている男、という作品を拝見していると、
アイデンティティなるものを模索するヨージさんの姿が垣間見えるような気がする。
私自身、自己とはなんぞや?という命題を頭の片隅で感じながら鑑賞していたのかもしれない。
むろん上演中は話の筋を追うことに忙しく、哲学的な考察の自覚はほとんどないのだが、
何も感じていなければ、こんなことを後から書くこともありえないのだから、
やはり無意識ながら深遠な問題にも思いを馳せていたのだろう。


●ヨージさんの表現法等

芝居、落語、漫才、漫談、コント…従来の舞台表現にはある程度の型があり、
演者はその枠の中に納まるように、素材を選び表現活動をしている(ように見える)。
しかし、ヨージさんの作品、舞台は、既存のどのジャンルにも納まりきらない、
もっと広い大きな世界のように感じられる。
ヨージさんが取り上げる素材は、日常の細々とした出来事であったり、
ふとした時に感じる気持であったり、従来の表現者からは取りこぼされてきた、
というか、顧みられることのなかったものばかりだ。
それらのものたちは、瑣末な取るに足らない無価値なものと受け止められていたか、
あるいは、最初から存在すら見落とされてきたのだろう。

・脱いだ左右の靴の中にそれぞれ脱いだ靴下を入れ、登り棒に登ったら
下りられなくなった小学校低学年男子。
(最初は得意げに登っていたものの、下を見たら怖くなって動けなくなってしまったのだろう。)

・家庭の事情で転校することになった小学校3年男子。
(慣れ親しんできたクラスメートと離れるのは辛い。
でも、みんなにお別れの挨拶をしなければならない。
だから寂しさをこらえ、懸命に言葉を捜し、とつとつと語る。)

・好きな男子を見送る立場の小学校3年女子。
(今までは口げんかばかりしていて、本当の気持は何も言えなかった。
好きなのに、このまま黙って別れるのはイヤ!
彼に思いを伝えなくては!)

上の三つの例は、今作品の中で語られたものだが、どれも従来の表現者であれば
取り上げてこなかったような、どこにでもいる小学生のありふれた日常の一コマだ。
そしてヨージさんは作品内での出来事、事実を描くだけで、登場人物の気持は何も語らない。
しかし観客には、彼ら、彼女らの胸の内が痛いほどわかるのだ。
かっこでくくった部分が、ひしひしと伝わってくるのだ。
共感できるのだ。

これらの気持は普段、人が当たり前に感じるものである。
だから従来の表現者は見落としていたのだろう。
もっと、「感動的」なもののほうが人目を引きやすいから。
しかし、人は既存の作品が描くような「感動」ばかり感じているわけではない。
常に何かしらの気持を抱いて生きているのだ。
それらの気持に大小、優劣、貴賎、といった差はないのだ。
どんな気持も水平に感じられているだけだ。

ヨージさんは全ての出来事、気持ちを公平、平等に見ている。
余命わずかな花嫁の話に涙する気持が、好きな男子に好きと言えぬまま別れを迎えるかもしれない
小学校3年女子に共感する気持より上等、尊い、なんてことはないのだ。
(昨今マスコミ等が供給する「感動」なるものは、感動の押し売り、
どちらかというと「感傷」ではないかという気がする。)
そのことがわかっているからこそ、ヨージさんファンの観客は、ラストシーンに
はっと胸をつかれ、笑いながら純粋に感動し、拍手喝采したのだ。
(笑いと感動もまたその価値において差はなく、公平、平等であり、同時に存在しうるものだ。)

客観的に見れば、パイプ椅子に座り、3台(だったと思う)のミニ四駆につないだビニール紐を
上下させている30代男子の姿は怪しげに映るだろうが、観客にはミニ四駆ぞりの手綱を操り、
好きな男子を追いかける小学校3年女子に見えるから応援したくなるのだ。

こういう一見些細に見える気持をおろそかにせず、丁寧に描くことのできるヨージさんは、
人知れず深い悲しみに耐える辛さや、胸がしめつけられるようなせつなさを知っている、
真に優しい人なのだと思う。



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